もう寂しくないから

長がった里帰りと追悼の旅が終わり、ご遺骨をパジュのソウル市立墓地に安置する日が来ました。

その日、私たちは早朝5:00から聖公会聖堂の納骨堂に仮安置されていたご遺骨を迎えに行きました。
これまで発見されたご遺骨のなかでも焼ききれていなかったものを火葬するためです。
戦時中、強制的に過酷な労働を負わされ命を亡くした犠牲者たちのなかには、人間の尊厳が保たれた葬礼を受けられなかった方々もいるのです。
酷い場合は浅い穴の中に3人もが重なって埋められてあったり、現在の私たちには想像もできないほど、当時の状況は悲惨だったのでしょう。

火葬も終わり、私たちは一つづつきれいに包んでもらった骨壺を大事に抱いてソウル市立墓地に行きました。
そこには今回帰られた115人の犠牲者とこれから帰郷することとなる犠牲者のための、立派な居場所が用意されていました。
犠牲者のご遺骨が安置されるのを待つ数時間の休息は、ご遺族や参加者からジャーナリストなどこの旅に関わってきた様々な人々が犠牲者との出会いを振り返る機会でもありました。

この日から一週間後は韓国の旧お盆で、パジュの墓地は親族に会いに来た家族で賑やかでした。
親族の墓地や納骨堂の前で談笑を楽しむ家族もいれば、広場でお弁当を広げて一休みを取っている家族もいました。
その光景は、犠牲者たちの新しいお家に人の温もりが伝わっていることを教えてくれて、私たちをホッとさせてくれました。
彼らはもう寒い北の地でさみしい思いをしなくても良いのです。
これから彼らには強制労働犠牲者のご遺族や私たちという家族がいつでも会いに行ける場所ができたから。

こうして115人のお祖父さんたちが北海道を離れ新しいお家に辿り着けたのはとても嬉しいことです。けれども、まだ犠牲者のご遺骨が日本各地に埋められているのを考えると安堵するだけにはいられません。

9月20日、70年以上もかかった帰郷のはじまりが終わりました。
忘れられている人々の、過去の掘り起こしはまた続きます。

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辺境からど真ん中へ

韓国での2日目には報告会と葬儀が準備されていました。 報告会では、どういう経路でご遺骨が見つかり、鑑定されたのか、また今回の遺骨奉還に至るまでの道のりが説明されました。 発表者たちの報告からは、犠牲者の過去を掘り起こすことに不可欠な苦労と哀しみが伝わってきました。 報告会に訪れた多くの人びとが植民地支配と戦争が残した課題を共有した瞬間でした。

同日の夕方にソウル支庁前の広場で行われた盛大な葬儀では、115人のボランティアが犠牲者たちのご遺骨をステージに招きました。 70年をかけて、やっと、首都ソウルの真ん中で犠牲者たちの無惨な死が想起され追悼されました。 韓国と日本の宗教人、アーティストやムニョ(韓国の巫女)、そして学者やソウル市長までが彼らの里帰りを歓迎し、彼らの犠牲を心に刻みました。

この葬儀の喪主は、115人の犠牲者のご遺族であると言えるでしょう。 月日が経ってしまったせいでご遺族全員は探せなかったのですが、いくつかのご遺族とはご縁ができ、葬儀にも参加していただきました。 そのご遺族のうちには、今回やっと家族の行方を知ることができた方もいれば、私たちの運動に10年以上も付き合ってくださった方もいます。 そのご遺族たちの瞳に、母国にさえ忘れられていた犠牲者たちにようやく光が照らされているステージの光景は、どのように映っていたのでしょうか。 式中、終始続いたご遺族たちの沈黙は、彼女・彼らの複雑な心境をあらわしているかのようで、過去が続いていることを気づかせてくれました。

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70年ぶりの里帰り

昨夜の荒れた波打ちが嘘に思われるほど平穏な水面を眺めながら、私たちは犠牲者たちが70年ぶりに故郷へ戻ることとなる朝をむかえました。

ご遺骨とともに韓国の地を踏むまでは休めないと思っていた参加者たちも、釜山についてやっと安堵の気持ちを味わうことができました。

70年も忘れられていたご遺骨の里帰りが、現在の私たちの心情をどれほど揺らがしているのかは、釜山の港でご遺骨を待っていた幾多のカメラのフラッシュが知らせてくれました。

犠牲者たちの里帰りは、海の両側の人びとにとって、とても待ち遠しかったのでしょう。
釜山では現在の港と、犠牲者たちを送っていた昔の港の跡地で鎮魂祭が行われました。
白いハンボクのムダン(韓国の巫女)たちの、かなしみの染み付いた踊りをながめながら、私たちは韓国にたどり着いたことを実感しました。

鎮魂祭の余韻に浸りながら、私たちは再びソウル行きのバスに乗りました。
所々で警察の護衛を受けていたにもかかわらず、私たちは1時間も遅れてソウル市中心部にある聖公会ソウル主教座聖堂に着きました。
70年の歳月に比べれば1時間はあっという間に感じられたのでしょう。聖公会の神父たちは犠牲者を追悼するミサをひらき、遅れてしまった里帰りを追悼してくださいました。

ミサのあと、ご遺骨は聖公会の納骨堂で仮安置されました。
仮安置であっても、70年ぶりに韓国の地で眠れたことが、犠牲者たちにすこしでも安らぎとなってくれたらと願いながら、私たちは韓国での初日を終えました。

海の向こうに

 

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日本での最後の追悼法要は、朝鮮半島を離れた人々が最初に足を踏んだといわれる、下関港近くにある光明寺というお寺で行われました。

光明寺では五色の色彩に彩られた飾り旗が私たちを招いてくれました。下関にまで辿り着いても朝鮮半島に帰れなかった人々が多かったからでしょうか、光明寺には所々に朝鮮の伝統的な屋敷を思わせる面がありました。どこか懐かしき雰囲気に包まれて、115人の犠牲者たちも故郷が近くなってきたことに気づいたのではないでしょうか。

他の場所と同じく、下関の追悼式にも様々な訪問客が私たちを見送ってくださいました。地元の関係者や在日コリアン、日本人の政治家と市民活動家は言うまでもなく、遠くは韓国ウルサンからフィールドワークに来ている人々もが、戦時中の過去を心に刻んでいました。見送りは追悼式で終わらず、私たちを韓国につれていく関釜フェリーが待っている港にまで続きました。亡くなられた115人がやっと日本を離れることを、その目で見届けたかったのかもしれません。

ようやく日本の地の呪縛からはなたれた犠牲者たちと私たちを乗せたフェリーは夜が更けるにつれ激しい波にさらされるようになりました。

ゆらぐ波は、彼らの、やっと故郷へ帰れることに対する喜びと、70年もかかってしまったことに対する怒りをあらわすかのようでした。

傷跡が教えてくれること

16日の朝、またねーっと手を振る大阪の仲間たちに告別をした後、私たちを乗せたバスは広島へと走りました。 原爆ドームという生々しい戦争の傷跡を通り過ぎて向かった広島別院では、私たちが担っている課題をもっと広い視野から考える場が準備されていました。

16일 아침은, 오사카 멤버들과의 다음의 만남을 기약하며 우리들이 탄 버스는 히로시마로 달려갔습니다. 원자폭탄이 남긴 전쟁의 흉터를 지나쳐 도착한 히로시마 별원에는 우리들의 과제를 좀 더 넓은 시야에서 생각할수 있는 장소가 마련되어 있었습니다.

広島の追悼法要実行委員会は、北海道と広島において、草の根のさまざまな努力がどのように強制労働という歴史的問題に取り組んできたのかを紹介してくださいました。また、意見交流の部では、高校生から市議会議員まで、地元で頑張っている様々な住民の声を聞きながら、北海道での活動を振り返ってみることができました。広島の方々との交流は懇親会にまで続き、私たちは美味しい料理と素敵なチャンゴ演奏を楽しみながら平和と和解について語り合いました。

히로미사의 진행위원회는 북해도와 히로시마의 풀뿌리 운동이 어떻게 강제노동이라 하는 역사적 문제를 생각해왔는지 소개해 주셨습니다. 행사 2부에 마련된 의견교류부에서는, 고등학생에서부터 시의원까지, 다양한 지역주민의 발언을 들으며, 우리들이 북해도에서 해온 일들을 돌아볼 수 있었습니다. 히로시마 분들과의 교류는 리셉션까지 이어져, 우리들은 맛있는 요리와 멋진 장고연주를 즐기며 평화와 화해에 대한 담소를 나누었습니다.

広島を去る前に、私たちは平和公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で、この土地の傷跡について考えました。とても悲しいことだけれど、差別される人同士がお互いを差別する、傷をうけた者同士が対立するというのは、社会のひとつのありようです。 けれど、広島の追悼法要を実現してくれた人々の平和への志と他人に対する誠実さは、人は痛みを経験することで他人にもっと優しくなれるという可能性を見せてくれました。

히로시마를 떠나기 전에, 우리들은 평화공원에 위치한 한국인원폭희생자위령비 앞에서, 이 땅에 남겨진 상처를 추도했습니다. 슬프게도, 차별받은 사람들이 서로를 차별하고, 상처받은 사람들이 대립하는 것은, 인간사회가 가진 한 면이기도 합니다. 그러나, 히로시마의 분들이 보여주신 평화를 원하는 의지와 타인을 대하는 성실함은, 인간이 아픔을 경험함으로써 타인에거 더 상냥해 질수 있다는 가능성을 보여주셨습니다.

そう考えると傷つけられること、そして傷跡を持っていることは、他人を抱擁する力につながるかもしれません。

그렇게 생각해보면 상처 받는 것, 그리고 상처를 가지고 있다는 것이, 타인을 포용하는 힘의 밑거름이 될수 있지 않을가요?

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関西、日本でのふるさと

15日は関西で2回の追悼会を設けてもらえました。

まずは世界文化遺産でもある京都の西本願寺の阿弥陀堂で。70年も待たせたことのお詫びをつげる捧持団の共同代表の言葉は多くの参加者の心に響きました。 涙をながす参加者たちと同じく、私たちは1日でも早く犠牲者たちを故郷へお迎えしたいと願いました。

それから訪れた大阪の津村別院では関西の皆さんが心のこめた追悼会とレセプションで私たちを迎えてくれました。 特に印象深かったのは、日本式および韓国式仏教から、円仏教、キリスト教、韓国式のチェサまで、多様な宗教儀礼で追悼が行われたことです。 異なる他者と共に生きるとは、こういうことじゃないでしょうか。さまざまな文化が共生する大阪ならではの追悼式でした。

いずれのお寺でも、次々と仏壇の前に並べられる115人のご遺骨が入った棺桶は、命の重さを伝えてくれました。 その重さははじめてご遺骨に対面する人々だけでなく、過去の掘り起こし運動に長年間関わっていた人々にも響いてると思います。 それ故に、多くの参加者たちが日本各地の追悼会に参加したり、また捧持団の旅に合流したりするのだと。 こんなにもやさしくて、まじめな人々とともに時間を過ごせるのは幸せなことです。

関西のみなさん、あいしてるよ!

遺骨捧持団、本州にてますます力を得る

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9月14日、私たちとご遺族は本州に着き、東京築地本願寺で宗教者と学者、そして市民たちが設けてくださいました追悼会とレセプションに参加しました。関東ではさまざまなご縁で出会えた仲間たちに歓迎されました。犠牲者たちのおかげで私たちはつながり続けています。戦争のなきがらは、犠牲を通して反省だけではなく、友情を育む機会をあたえてくださっています。

実は、法要のあとにもう1回絆を確認する機会がありました。この夜、ご遺骨を掘り起こしながら戦争の怖さを体験した私たちのうち、若者6人はこれ以上の犠牲者が増えないことを願いながら国会議事堂前のデモに参加しました。

警察とずっと睨み合っているうちに、政府の無茶振りで遅い夜まで働かせている若い男の人たちが可哀想に見えてきました。もし日本が再び戦争に巻き込まれたら、彼らは真っ先に危機にさらされるのでしょう。しかし、彼らの命も大切です。と思ったら、叫ばずにはいられませんでした。

「もし戦争が起きたら、国なんか阿部なんかじゃなくて、ちゃんと自分をまもってください。生きて、死なないでください。あなたの亡骸を誰かに掘り起こさせないでください。」